2009年4月アーカイブ

 前回の「ボクちゃん」シリーズに続き今回は旅をテーマに、今まで行った所の思い出や風景、旅先での出来事などを書いてみる事にした。(廻りから煽てられると豚も木に登る、のがボクちゃんである)

 人は皆、国内外、遠近に関わらず旅をしない人はまず居ないだろうと思う。
では、旅とはと問われると??である。
そこで旅の定義とは、と辞書を開くと「差し当たっての用事は無いが、判で押したような毎日の生活の枠からある期間離れて、ほかの土地で非日常的な送り迎えること」とある。
 だからビジネスでの出帳や転勤、近所へ買い物などで移動することは旅の範疇ではないと言うことらしい。
あくまでも「差し当たっての用事は無い」というのだから。
また、「ほかの土地で非日常的な送り迎えること」とあるところにボクちゃんは大好きで同感する。

旅の諺には「旅の恥は掻き捨て」「旅は憂いもの辛いもの」「旅は心、世は情け」「旅は情け、人は心」「旅は道連れ、世は情け」といろいろとある。

修学旅行
 それでは前置きが少し長すぎたので、ボクちゃんの過去の旅を思い出しながら始めます。

旅と言えば小中学校の修学旅行がありますね。
小学校当時は敗戦間もない時で、カネもモノもナイナイづくしで手弁当を持って近くの山、川へ連れて行って貰うぐらいの旅でした。(これは旅とは言わない、遠足だー)

 中学校になると修学旅行の費用積み立てをする。
三年生になると泊まり掛けの旅行をするようになる。
 ボクちゃん達はこの当時お決まりのコース奈良、京都の修学旅行であった。とはいえ修学旅行シーズンともなれば各校が同じ列車で、同じ所へ行くのだから、その混雑ぶりは凄まじいものであった。
 また、当時の持ち物としてボストンバックに三合の米を入れて行った覚えがある。
つまりはご飯の持ち込みである。(食糧難対策なのだー)
 列車といえば蒸気機関車で、排煙の煤を浴びながら座席は衝立の様な木製の堅い椅子で長時間揺られて行くしかない。(疲れてくると床に新聞紙を広げ寝たなー)
 
 修学旅行といえば奈良、京都の神社仏閣を見て回るのが定番である。
しかし、この年代では大して神社仏閣の知識もなく興味も沸かない。
もっぱら旅館に入り食事と枕投げだけで旅行を楽しんだ覚えだけだ。

 中学校卒業後は直ぐに奉公(就職)に出てしまったので、この間の旅の想い出は余りない。

ボクちゃんが独立してからはご贔屓のお客さん達と年に一度の旅行を楽しんだ記憶がある。

「飲平衛旅行」
 ある年、一泊二日で東北方面へ行こう、と言うことになり三台の自動車を走らせ十和田湖、田沢湖、盛岡へ向かった。
 確か十和田湖へ行く観光道路が除雪したばかりで道路は雪の壁で綺麗な光景であった。この頃から自家用車を持つことに喜びを持ち、道路開発も進められ遠距離まで旅行するようになった。(自動車社会の幕開けである!)
しかし、ドライバーのマナーは良くなかった。
飲酒運転は当たり前。ビールを飲みながら長距離運転。今思うと飲平衛連中の旅行だけに
よく事故を起こさなかったものだと背筋が寒くなる。

 その仲間の一人が雪の壁で綺麗な雪道にビールを埋め込め「帰り道に冷えたビール飲もう」と、とんでもない事を発案した。
 そこでビールを雪の中へ埋めてのだが、埋めた所への目印を付けるのを忘れてしまい帰り道にはとうとうビールは見つからない始末。
雪解けともなればビールの姿が現れるだろうに。 (バカだね)
「旅の恥は掻き捨て」である。

 飲平衛連中の旅だから起きてから寝るまで酒を飲んでいる。
さて、十和田湖、田沢湖を観光して泊まる宿を探し明日は「わんこそば」を食べようと言うことになった。
宿は小岩井牧場の近くにある「繋温泉」と決まった。
 この宿では宿泊客に一人に一升の地酒が付く、という計らいの宿で直ぐに飛び込む。
全員で12名だから一斗二升になる計算だ。
早速、この晩宴会となり芸者を呼び盛り上がりたちまちの内に一斗を飲み干してしまった。
翌朝、温泉に浸かり朝食となり、ここでまた残りの二升をペロリと平らげる。
(恐るべき飲平衛連中!!)

 次の目的地は盛岡である。
一度で良いから本場の「わんこそば」を食べてみようと連中は市内のそば屋の暖簾をくぐる。
 まずは店内の座敷に通された。
壁一面に、この店で何杯食べたかの記録の色紙がギッシリと貼られている。
多い人で数百杯とある。驚きである。
 いよいよ、我々の食べる支度が出来、四角くい仕切りのある器が出てきた。
そこには酒のつまみとも思われる具があり、ここでも飲平衛連中は酒を注文する。
 あとからソバを投げ入れるお姉さんが、「そんれはツバンコと一緒に食べるものだぁ」と言われ、その時にはもはや手遅れ。具の器は空っぽとなり恥を掻いてしまった。(飲平衛の喰意地もハンパではない)
 さて、本番の「わんこそば」である。
一口大のソバ玉をお膳に並べたお姉さんが肩越しに「ハイ、ハイ」とお椀に投げ入れてくる。そのタイミングの良さは見事である。
ギブアップするには持っているお椀の蓋をしない限りそばは投げ入り続けられる。
さすがに十個当たりでソバが喉につかえ気味、突っかかり気味となる。
(こんなにせっつかれてソバを流し込んでは、味などわからない)
あの色紙の数百杯を食べた人はそうとうの健啖家か味音痴かである。

 この「わんこそば」は古くから盛岡の名物で一度は食べてみる価値はある。(ウムム??)

 只、このような飲平衛旅行は今では「飲んだら乗るな、乗るなら飲むな」とあって許されない。(当たり前じゃ!)

 日本の1955~73年(昭和30~48年)の高度成長期には右肩上がりの経済発展で大きく生活様式が変化してきた。
 先ずは国内の輸送網の発達で高速道路、新幹線ができ各地に飛行場もできモノ、ヒトの往来が活発になった時代でもあった。


「初めての海外旅行」
 少し生活に余裕が出来てくると「温泉へでも行こうか」となり旅をしたくなる。
商売をしていた時は年に一度お客さんと温泉旅行をしていたが、ある年に客が「海外旅行をしよう」という事を言い出した。
「サイパンへゴルフ旅行に行く」ととんでもない事を言う。
 海外旅行となるとまずはパスポートが必要だ。
これを取得申請に東京交通会館へ夫婦で行った。
 ところが当時の窓口担当官が妻に本人を証明する「写真付きの書類が必要」であると言う。
窓口で妻は戸籍謄本だけではダメだと言われ、免許書を持たない妻は狼狽、戸惑いボクちゃんにこの事情を言いに呼びかけてきた。
そこで「これは俺の女房だ、文句あるか!」と言ってしまった。(まったく!お役所は杓子定規の対応である)
取り敢えず、まずは海外旅行へ行く手続きは終わった。

 出発当日、始めて手にしたパスポートを胴巻きに偲ばせいよいよ搭乗手続きの時となった。
ところがメンバーの一人がこの大事なパスポートを家に忘れて来てしまった。
(もう、まったくそそっかしいんだから!!)
さぁー大変、直ぐに家に電話を入れパスポートの置き場所を指示して家人に持ってきて貰う事となった。
 パスポートの無いこの当人は当然一緒に搭乗する事はできず、次の便グァム経由で来ることとなった。(それはしょうがない)

 初めての国際便
 初めての国際便ともなるとどこか緊張感が張りつめてしまう。
もし、金髪スチュワーデス(キャビン・アテンダント)に英語で問いかけられたらどうしようか、と思っているところへ機内食が運ばれ始めた。
どうか外国人スチュワーデスでありませんようにと願っていたが、悪い予感が的中して金髪のスチュワーデスが来てしまった。
金髪スチュワーデスが機内食は「パンにするか、ご飯するか」と英語できた。
ボクちゃんは下を向いて「ご飯プリーズ」と額の汗を拭きながらオーダーした。
(何事も初体験は緊張の連続である)

 先ずは一人を残し一行は無事サイパン空港に着きタラップから下りる。
南国特有の生暖かい空気を肌に受け生暖かい空気吸う。
サイパン空港の建物は椰子の葉を葺いた屋根で個性的な作りであった。
飛行場の手続きを終えゴルフ場からの迎えのバスに乗り込み、ゴルフ場にあるコッテージ風の部屋に各自入る。
 ホットしてひとまず部屋で旅の荷を解く。
緊張感から来る疲れで夕飯まで寝てしまった。
ここのゴルフ場は日本人客が多いのかレストランには和食が用意されていた。
食事中、一人残されてきた御仁が遅れて到着して一同拍手で迎える。

 翌朝はゴルフを1ラウンド回る。
海越えのコースではボールを幾つ打ち込んだことか。
(下手クソ―、ボールなんざぁ魚の餌にもならねぇ)

 午後からは島の観光である。
サイパンは戦争中大変な激戦地であったと聞いている。
また、ニュース映画では女性が我が子を抱き崖から身投げする場面を見たことがある。
悲惨の極めである。
その岬に立つと足のすくむ程の絶壁にあり、思わず息が詰まる。
供養のために日本から持ってきた酒を捧げ一同手を合わす。
また、周辺の山には弾痕が数限りなく残り、今でも赤爛れた戦車の残骸がある。
楽しいはずの旅行が、この時ばかりは複雑な気持ちになった。(戦争は惨い、合掌)

 もう一つゴルフの話。
 サイパンのゴルフ旅行から数年後、次女の家族とグァムへ行くことになった。
お舅さんがグァムで一緒にゴルフをやろうと言う。
 お舅さんはその時、かなりゴルフに入れ込んでいて海外でゴルフがしたいと言う。
ボクちゃんは、その頃ゴルフ熱が冷めゴルフ・クラブもシューズも埃を被っている状態であった。
しかし、お舅さんからの切なる願いがありゴルフシューズだけを持参した。

グァムに着き翌日、ホテル近くのゴルフ場へ行き貸しクラブを借り、ティーグランドに立った。
だが、しばらくクラブを振っていない事と貸しクラブなので、初めの頃は思うようにボールが飛ばない。
お舅さんは得意顔で「肩を回して、ユックリ振って」とかアドバイスをしてくれる。
7ホール目あたりのフェアウエーを歩いているとき「オヤ?」とシューズの両つま先に違和感がした。
シューズを触ってみると、何と靴底が剥がれているではないか。(アリャリャー)
持参した埃まみれのシューズの糸が解けペッタンコ、ペッタンコとなってしまった。
その場凌ぎでワラジのように靴底を紐で縛り、何とかハーフをやり終えた。
(情けない姿のゴルファーである)
その結果、前半ハーフはお舅さんに負けたのである。

 残りハーフは貸しシューズを借りクラブも大分馴染んできた。
お舅さんをアウトドライブする事が度々あり、段々とお舅さんは無口になりカートの運転もしなくなった。
しかし、勝負事には遠慮は要らない、とボールを打ち結果は一勝一敗となった。

翌日もゴルフをやる予定であったが勝負事では楽しく無い。
家族で島内観光をして海で孫達と遊び楽しい一日であった。(これ、正解であった)
 ここのホテルは海辺にありコンドミニアム形式で部屋にはキッチンがあり食事、洗濯もできる設備が整っていた。(これは安価で家族向きだ)

「修学旅行Ⅱ」
 話を修学旅行に戻そう。
 ボクちゃんが高校へ行ったのは商売をリタイアして五十代の半ばであった。
この高校は農業高校で修学旅行を北海道、関西、九州の中から生徒に選ばせる事になっている。
 ボクちゃんの希望はこの歳まで一度も行った事のない北海道であった。
生徒の多数決で北海道と決まり三泊四日の修学旅行に行くこととなった。

 出発日は羽田空港に集合。
函館、札幌、ニセコ、小樽、富良野という三泊四日のコースでかなりの強行な旅だ。
 ボクちゃんが北海道旅行を提案した一つは本校が農業高校であること。
二つめは6月で梅雨シーズンである、という事からで北海道に賛成した。
 高校の修学旅行となると担任教官と教頭が引率する。
(ボクちゃんより年下の先生だけれど)
定時制高の生徒半分は経済的な理由や希望校受験失敗でだいたいは落ちこぼれ的生徒の集団である。
クラスの年齢もまちまちで社会人も混じっています。
(ほとんどの生徒はアルバイトをしているけれど)

 こうした生徒を引率する先生はさぞ大変だと思うが、意外にも生徒達には統率力があり班ごとにまとまって行動する。
これは普段校庭にある畑仕事をやるときの分担制から学んだ結果ともいえる。
(そうだ、そうだ!!)

 まず、北海道での体験学習だ。牧場の搾乳(乳搾り)をする。
丁度この頃、全国的にO157が広がり牧場に出入りする車も人も必ず消毒液で消毒してから牛舎に入る事になっていた。
 広い牛舎には何十頭もの牛が繋がれたり、寝そべっていたりと壮観な光景である。
そのうちの数頭が生徒達に搾乳させてくれる。
生徒はおっかなびっくりと牛に近づき乳搾りのコツを教えて貰い乳頭を搾る。
暖かい乳頭から出る乳に満足して、次は搾りたてのミルクをご馳走になる。
(これはウマイ!濃い!濃厚マッタリ)
 また、違う牛舎では獣医師が来て長いゴム手袋をはめ、肩まで雌牛の〇〇に差し込んで種付けをしていた。滅多に見られないところを見学した。
(ボクちゃん、牛で無くてよかった)

 北海道はデッカイドウと言うが町から一歩出ると広大な畑が広がる。
また、有名な湖も数多くあり、その一つ支笏湖でカヌーに乗ることになった。
湖畔を漕いで湖上からの散策だ。
まず、カヌーに乗る前にインストラクターから漕ぎ方、廻り方を丁寧に説明を受けてから静かな湖へ漕ぎ出す。
数班に分かれたカヌーは湖畔に張り出す木々の下を通り抜け、鳥の囀りと櫂の水音だけを聞き静寂な世界であった。(ロマンチック!?)

 北海道の修学旅行(2000年)は駆け足旅行ではあったが、ケバケバ毒々しい都会から離れ、大自然と触れあうことで若者達は何かを得たのではないだろうか。
 


イギリス・フランス・イタリア・スイスツアー1996年(平成8)
この旅行は11日間のスケジュールである。
どうも日本人はヨーロッパ、アメリカに対しての認識は一歩引いてしまう傾向がある。
ボクちゃんもそうであるが欧米列強という言葉が頭の片隅にあり、金髪青目が目の前に現れると頭をうなだれ、目をそらしいじけてしまう。
 そのような国へ無謀にもボクちゃんは行ってしまった。


 旅行する国々の場所は世界地図では判っていても、いざ、行くとなるとある程度の予備知識が必要になる。(そうそう)
まずは、「地球の歩き方」を買いウムウムと下調べをする。
取り敢えず以前サイパン、グァムへ行っているので出入国手続きは経験済みである。
あとは旅の荷造りであるが、長期間の旅には下着は使い古しで捨ててくる。
これでスーツケースの容積が段々広くなる。 
できるだけ持ち物をコンパクトにしてポケットの多いベストを身につける事。
これで先ずは旅の準備ができました。

 ハプニング
いよいよ出発となり成田空港へ集合する。
旅行会社のツアーは添乗員が付くことで外国へ初めて行くには安心して行くことができます。
ところが、この旅行で思いも掛けない事が起きた。
無事手続きが終わり搭乗して自分の席を探していると添乗員が「ここは満席なのでビジネスクラスへ行きましょう」
「エッそんなことあり」と言うがままに案内される。
多分、自費では乗ることができないビジネスクラスである。
エコノミークラスとは座席、機内食も違い俄お大尽になった気分。(内心シメシメ)
出足からラッキーである。

イギリスまでの機内で配られる入国手続き書類は全文が英語だ。
英語アレルギーのボクちゃんは直ぐに添乗員にお願いする。
 空港での手続きの係官は外国人で、イヤ違う、ここではボクちゃんが外国人だ。
これからは金魚の糞ではないが添乗員の旗の後に連なり、ぞろぞろと御一行様のお通り。
(つまりはオノボサン旅行なのである)

 もうひとつ海外旅行で問題なのが小遣いとなるお金の両替である。
外国で「10万円持っているから文句あっか!」では通用しない。
まずはその国のドル、ポンド、フラン、リラ、元、ペソ等々に両替しなくてはならない。
「一万円だとどのくらいになるのか?」毎日、毎日日本円の価値が変る。ホテルでも両替所でも変わる。忙しない。

 イギリス・ロンドン
 イギリスと言えばロンドン。
ホテルに着くと旅行会社から配られた海外旅行日程表を片手に添乗員から部屋と今日、明日の日程の説明を受ける。
 それから外国ではチップ(tip)という習慣である。
スーツケースを運んでくれたポーターに何ペンス、ルーム・メードには何ペンス、レストランの食事後にもチップをと。(これだけで疲れる)
日本ではボクちゃんなんかはチップと言えばスナックで気分良く飲ましてくれたオネーチャンにしか払わない。(つまりは気分次第)

 限られた日程で4ヵ国の観光地を廻るのだから忙しい。
それだけにボクちゃんの記憶もおぼろげとなる。
バッキンガム宮殿、タワーブリッジは直ぐに思い浮かぶが、あとははっきりしない。
バッキンガム宮殿では手足を突っ張った衛兵がおもちゃの兵隊さんのように歩く。
あのスタイルで歩くのはさぞ疲れるだろうな、勤務手当はどうなっているのか?食事は?トイレは?と余計な心配までしてしまう。(情けない)

 それから夜、イギリス名物パブへ案内された。
パブの雰囲気はちょうど、浅草あたりの立ち飲み屋である。
そこへ日本の団体の客がドヤドヤと入るのだから、常連さんは良い迷惑である。(と思う)
目をシロクロさせて、いやシロアオさせてボクちゃん達を見つめる。
このディナーはまるではとバス観光の「夜のコース」の気分であった。

ロンドンの印象は全体的に石造りの城や砦を見て回ったせいでゴツゴツとした堅い印象が残った。
また、治安が良くないのか自動車泥棒が多いのか車のハンドルに棒状の鍵が施錠されていた。
英国紳士の象徴シルクハットを被ったヒトは誰も居なかったな~。


フランス・パリ
さて、次の日程はフランス・パリである。
パリへは開業間もないユーロスターでドーバー海峡の海底トンネルを抜けパリへ行く。
日本のトンネル技術は最高で、とうの昔に関門トンネル、青函トンネルと海峡トンネルを造っている。
ただ、飛行機の時代に国境を海底トンネルで繋げることは画期的な手段である。
(♪トンネルだ♪トンネルだうれしいな~)
 夜行列車だから景色の見えないトンネルで良いのだ。
 直ぐに列車内でのディナーとなりメーンディッシュのダックが運ばれてくる。
 (どうもカタカナが多くなる)
 ユーロスターはそれ程の振動も無く、飲み物が僅かに揺らぐだけだ。
 (この食事は星二つ半)

 ユーロスターはロンドン-パリ間を三時間で結んでいる。
食事をしてしばらくすると間もなくパリに着く。

さぁ、華やかな憧れのフランス・パリだ。
芸術の町パリ。花の都パリ。
気品溢れるパリだと意気込んだボクちゃんは、少しツンノメリ状態。
パリ北駅で降りる。
先人の有名画家、作家、芸能人は必ずパリを起点として傑作を残している。

いまのヨーロッパ通貨はユーロであるが、当時は日本円をフランに両替しなければならない。
1フラン=24円 因みにイギリス・1ポンド=181.64円、イタリア・1リラ=0.076円
スイス・1フラン=89.50円と手帳に記載されていた。
為替なんか普段縁が無いだけに換算するのに時間が掛かる。
また、欧州でショッピングするときに値札の数字の1が7なのか9なのか、2が5なのか、判りづらい。(どうもこの辺が怪しい)
 
 日本に紹介されているパリは代表的なエッフェル塔、凱旋門、セーヌ川、ルーブル美術館、ノートルダム寺院、ベルサイユ宮殿などと世界的に有名なところで知られている。

 パリに着きホテルで添乗員の例の説明があり各自各部屋へと向かう。
エレベーターに乗り込んで驚いたことはドアが金属の蛇腹むき出しガラス無し、手を出せば危険極まりなしのエレベーターだった。
このホテルが由緒あるホテルだというから驚きである。(安全面はどうなっているんだ)

 パリの有名観光スポットは現地ガイド付きで案内してくれるので、自由時間を利用して地下鉄に乗ってみた。
 先ずはガイド・ブック片手にホテル近くの駅へ行き地下鉄路線図を手に入れる。
地下鉄路線図は色分けしてあるので判りやすい。
自分の乗る駅にマーカーしておく。
東京の地下鉄のように案内放送が無く、ドアも自分で開けるので目的地の最寄り駅を探し何個目の駅か数えておく。(一つ、二つ......他人の目を無視、見栄を張らず)
郷には入れば郷に従えだ。

先ず、ルーブル美術館を目指す。
Palais Royal駅で下車すると直ぐにルーブル美術館だ。
特に絵画、彫刻に興味があるわけではないが取り敢えず入館する。
(この先取り敢えずが多くなる)
 有名作品の実物、本物を鑑賞したと言うだけでそれほど感動はない。(取り敢えず)
 ある絵の前で画家のタマゴらしき青年が本物の絵の前で模写しているではないか、こんな事が許されるのか!?(要らぬ心配)
日本ではダメだろうな。
やはりここは芸術の国フランス・パリだからなのか。

取り敢えずサァーとルーブル美術館と見学して地図を見る。
次は凱旋門当たりに行こう。
取り敢えず凱旋門を目指す。
前日、バスで凱旋門を車窓から見て、この廻りをぐるり一回りした。
凱旋門を中心に放射状に12本の道がありにロータリーとなっている。
そのためここへ入ったら出口の道を一つ間違うと、また一周しなければならない。
(ボクちゃんなんか一日中ロータリーから出られないだろう)
 凱旋門は大きい。東照宮、浅草寺の山門より大きい。
(こんなところで比較すんな!!)
 取り敢えず腹も空いてきた。
 シャンゼリゼ大通りを歩く。(♪♪オーシャンゼリゼ、鼻歌まじりに)
 カフェ・テラスが軒を連ねている。
 そこの一軒に入る。
 椅子に座ると長い前掛けをしたボーイが注文取りに来る。
 何やらフランス語でムニャムニャと言うのでボクちゃんは「カフェ」と言うと「ウィ」と応えた。
 こうしてフランス人と商談成立。チャーンとコーヒーが運ばれて来た。
 少し歩き疲れたのでマロニエ並木の景色を見ながらガイド・ブックを開き、これからホテルへの帰り道、最寄りの駅を確認する。
迷子にならないように、もうホテルへ帰る算段をしているボクちゃん。

 この日の夕食はセットされていないので自分たちで調達しなければならない。
ホテル内の売店で食べ物を買い部屋に持ち込む。
 一人寂しく花の都パリのホテルでフランスパンをかじる。(何だか惨めー)

 パリで初めてデンデンムシムシカタツムリのエスカルゴを恐る恐る口にした。
想像していたよりも美味しい。
タニシより癖が無くナガラミか姫サザエのような食感だ。
 露天の屋台に並ばれた生牡蠣もパリの名物ではある。
しかし、これは遠慮した。パリまで来て食中毒が怖いから。

 花の都パリは取り敢えず歩き疲れ、気力、体力ヘトヘト。
 まだこの旅行半分の行程である。この先が思いやられる。
 次はイタリア・ローマである。

 バスでシャルル・ド・ゴール空港に着く。この空港は円形でバカでかい。
 検査が厳しく手続きに時間が掛かり添乗員は少しイライラしていた。
 7月というのにパリの朝は冷たく吐く息が白い。


 イタリア・ローマ
 イタリアと言えば直ぐに地中海に張り出した長靴の形をした国と思い浮かぶ。
 映画では「ローマの休日」、マカロニ・ウェスタン「夕陽のガンマン」「自転車泥棒」などあり「ローマの休日」でグレゴリー・ペックとオードリー・ヘプバーンがスクーターに乗りローマ市内を走り「トレヴィの泉」や「真実の口」など名所の場面を見た記憶がある。

 名所も良いがそれよりもボクちゃんは食い意地が張っているので、是非本場もんの「スパゲティ」「パスタ」「ピッツァ」を食べ「エスプレッソ」を飲みというイタメシオンリーを満喫してみたい。
 
 早速、旅行会社の一日目の昼食スケジュールに「パスタ」とある。
 朝はパリにいて今は昼のローマだ。
それもいきなり本場の前菜「パスタ」という。
「エッ」パスタは主食では無く脇役の前菜なんだ、とこのとき判った。
長距離移動のためか余り食欲も湧かず、だが、午後からの観光がギッシリとあるので腹に詰め込む。(パスタの味ね??)

午後の市内観光ではサンピエトロ大寺院、古代競技場コロッセオ、トレヴィの泉と廻る。
カトリックの総本山サンピエトロ大寺院の建物はミケランジェロが設計したという。
確かに広い広場の奧にそびえる総本山サンピエトロ大寺院は石の柱が何本も建ち並び立派に見える。
広場にはカトリック信者(だと思う)の多くの外国人が見学に来ている。
日本にも仏教の総本山が各地にある。
そこには門前町があり土産物屋や名物料理屋が並んでいる。
 しかし、ここ総本山サンピエトロ大寺院の門前町?には土産物屋や名物料理屋が並んでない。
 世界的ともなると格式が高いのか、威厳があるのか。
そういえばここには派手な衣装を着た衛兵が立っている。
ここで規律を乱す行為をすれば直ぐに衛兵に連れ出されてしまうのかもしれない。(アーメン)
 
 古代競技場コロッセオは石造りの円形競技場で現代のサッカー場のような遺跡だ。
ここで大昔、人間と猛獣を戦わせたり、剣士に決闘させたりと、この修羅場をスタンドから見物していたのだから恐ろしい競技場なのである。(スペインの闘牛も血を見て興奮する、どうもこの辺の国々は血の気が多いようだ、クワバラ、クワバラ)

映画「ローマの休日」の場面スペイン広場は、ただ幅の広い石段があるだけ。
ここにたくさんの人が座り込んでいる。
大して見るものは無いのにナンデカナー。
ただここにはスリが横行しているので充分注意と添乗員から言われた。
(臆病なボクちゃんは早くもバスへ引き返す)

 その町、その町には匂いがある。
 ローマの町の匂いはオリーブの匂いがする。
 大概の食べ物にはオリーブオイルが使われているからか。
 町の食料品店を覗くとパスタ、スパゲッツティの種類が豊富なこと。
 また、屋台の果物店がたくさんある。
 ピッツァの店では店先に大きな焼き釜があり、大きなシャモジを持った人がピッツァを焼いている。
 焼きたてのこのピッツァは本当に美味しい。日本の宅配ピッツァと全然違う。
(Ottimo!〔伊〕オイシカッタ!)

ローマから南200kmのナポリへ行く。 
 ここの町は潮の匂いがする。港町だ。魚が食べられるぞ。
 第一の観光は火山の噴火で埋没してポンペイの古代遺跡。
 バスは細い山道をクネクネと登る。バスから降りるとそこは暑かった。
 黄土色した遺跡群が暑い日差しを受け、より暑さを感じる。(アジー)
 ここにも観光客が多く集まり、手に手に飲み水を持ち黄土色した遺跡を見学する。

 紀元79年にヴェスヴィオ火山の噴火で火砕流に飲み込まれたポンペンの古代都市。
 その規模は大きい。(普賢岳の火砕流も大きいけど)
 この時代に早くも鉛管の水道管が引かれ、石畳の車道と歩道があり、商店街、住居、共同浴場などがあり文化水準の高さを見ることができる。
 当時のお金持ちの家なのか、大きな中庭があり立派なキッチン跡がありかなり贅を尽くしていた様子がわかる。
 また、最も興味があったのは娼婦の館である。
ここには男女の交わる様子が克明に書き残されていた。(大昔からこれは変わらない)
 何しろ広大な遺跡群なので今でも調査の人がコツコツと発掘作業をしている。

 ここを見学したあとナポリの町へ戻ったが、道路が汚い!
アッチコッチにゴミが散らかり観光地としては失格だ。
こうした町では魚料理も食べる気にもならない。
 景色は日本の熱海、神戸のような所であった。

 また、ローマに戻りフリータイムをヴェネスト通りへ出て買い物をする。
 買い物の内訳は洋服3点391,000リラ(\30,000) レザーコート59,000リラ(\43,704) バッグ35,000リラ(\28,000) 飯代2人15,500リラ(\1,240)と当時の手帳に書かれてある。


 スイス・ジュネーブ
 この旅行の最終訪問国である。
 スイスと言えばアニメの『アルプスの少女ハイジー女』だったり、時計、アルプス山脈が思い浮かぶ。
 もう一つスイスの代表料理と言えば「フォンデュ」だ。
また、チーズ、バターも然りである。
 スイスを世界地図で見ると周辺を外国に囲まれ誠に小さな国である。
この国は何と言っても自然景観を最大限に活用した観光立国のお手本であります。
 スイスに訪れる前は湖ありの、登山電車ありの、ケーブル・カーありので富士箱根国立公園の大型版を想像していた、が全然スケール、規模、桁が違い過ぎた。
 
 スイス・ジュネーブに着き「ホテル・ドゥ・ベルン」に入る。
レマン湖の近くにありクラッシックなホテルである。
最終目的地でユックリ二泊出来るのがありがたい。
 日程表は段々と疲れの為か文字の乱れで判読不能状態。
 
 ここでの最大目的はモンブラン登頂である。
 登山入口シャモニーの町に着き、ここから我らクールーはモンブラン登頂を目指す。
 充分な装備とガイドを従え登頂成功して頂上に旗を翻す。(あくまで想像)
だが、シャモニーの標高が1037mと聞いて、当初の計画を変更してロープウェイとエレベーターによる動力登頂にと計画変更した。(この辺りでメンバーが息苦しいという)
 目指すは標高4807mのモンブランを間近に望む。
富士山より高い3842mのエギーユ・デュ・ミディ峰。
この頂上を半日で登頂成功というのだから動力登頂しかない。
 つまりはお手軽なアルプス登山である。
 
 ロープウェイ乗り場には世界各地からの多くの登山客で賑わっている。
 ロープウェイはグングン高度を上げ下界の広がりを見せる。
 ロープウェイの頂上駅にはエレベーターがあり、ここからまたエレベーターで上がって展望台に着く。
展望台の手すりには8月というのにつららが垂れ下がり寒風が顔を刺す。

富士山にも登ったことがないのに、まさかこんな高い所へ来るとは思わなかった。
それも一気に動力登頂してしまった。
展望台から見る景色はヨーロッパ最高峰、標高4807mのモンブランをはじめ、4000mを超えるシャモニー針峰群が一望できます。
廻りは全て白い針山である。
一応、ヨーロッパ最高峰のアルプスを数時間で登ったことになる。

下山をしてシャモニーの町にあるロッジ風の店で名物料理「ミート・フォンデュ」を食べる。
寒さと空腹で出されたミート・フォンデュを「パァフパァフ、フーフー」しながら食べると格別に美味しい。
また、「チーズ・フォンデュ」も濃厚で美味であった。
取り敢えずスイスでの目的、ヨーロッパ最高峰のアルプスを数時間で登り、本場のフォンデュを食べたのだからボクちゃんは満足、幸せ。

 初めてのぴゅう『感動の旅ヨーロッパ』を無事に終える事ができた。
 各国の名所旧跡を駆け足で見学したので思い止めてある所は僅かである、が知らぬ国へ行くと言うことは「ほかの土地で非日常的な送り迎えること」という旅の定義を実現、実行、体験、経験したことになる。
 

ボクちゃんの旅行カバン
ボクちゃんが海外旅行へ行くようになったのは、日常使うことのないあの大きな引きずり旅行カバン(キャリーバック)の中に何を詰め込んで行くのだろうか、という疑問と興味シンシンからである。
国内の2泊3日の旅行ならば手提げカバン一つで充分であるのに。

旅の定義に「差し当たっての用事は無いが、判で押したような毎日の生活の枠からある期間離れて、ほかの土地で非日常的な送り迎えること」とあるところから、外国で非日常的になり、もしホームレス状態になった時に大きな引きずり旅行カバンが必要になるのだろうか。

『ブルーガイド・ワールド』や旅行会社の「荷物を用意する」というコーナーを見ると20kgまでの受託手荷物は無料であると書かれている。
では、中に入れて行く所持品はと言うと衣料、日常品、常備薬などが21品目もの品物が羅列されている。
その他に機内持ち込み荷物にも20品目もの所持品が羅列されている。
(これだけの所持品があれば、もしホームレス状態になった時でも充分である)

「あると便利」のコーナーに会話集も入れとけとあった。
今回は無謀にも4ヵ国を一気に廻る旅行とあって、『六ヵ国語会話』をバックに入れた。
つまりはフランス語、イタリア語、英語、スペイン語、ブラジル・ポルトガル語、日本語。
これさえあれば外国で「差し当たっての用事は無いが、判で押したような毎日の生活の枠からある期間離れて、ほかの土地で非日常的な送り迎えること」ができるだろう。

『六ヵ国語会話』の例文には①基本会話 ②機内で ③空港で ④ホテルで ⑤レストランで ⑥一人歩き ⑦観光・プレイ ⑧ショッピング ⑨郵便・電話 ⑩紛失・病気 ⑬基本用語とあり日本語で聞きたい、知りたい事が各国の原語にカタカナで書かれている。
例えば基本会話の日本語で「こんにちは」をフランス語ではボンジュール、イタリア語ではブオン ジョルノ、スペイン語ではブエナス タルデスと原語をカタカナという形になっている。
この冊子はポケットサイズでまことに便利な本である。
ただ、カタカナで聞く事は出来ても返ってくる言葉が理解できるかが甚だ疑問だ。
それでも万が一の時に「備えあれば憂いなし」としてバックに入れておく。


 ボクちゃんのホームステイ
 海外旅行と言えば普通パッケージ・ツアーが定番である。
これは名所旧跡、名物料理、一流ホテル、添乗員・ガイド付きなどと、てんこもりのセットとなっている。
 ボクちゃんはこのパッケージ・ツアーに飽き足らず三度もホームステイをしてしまった。
 これは無知、無謀、曖昧、世間知らずと言われても仕方がない。

 ボクちゃんが高校、大学へと進んだのは人生の折り返し地点の五十代半ばであった。
 この高校、大学には必修科目として英語科目があり、これを何とかクリアをしたいという単純な発想から。
ならば英語圏の家にお世話になるのが一番手っ取り早いと考えたからである。
 そこで三回にわたってホームステイを遂行、実践、実行。
 1回目 アメリカ・ロスアンジェルス ホームステイ1997年(平成9)
 2回目 オーストラリア・シドニー ホームステイ1997年(平成9)
 3回目 ニュージーランド旅行Ⅰ語学ホームステイ2006年(平成18)


 1回目 アメリカ・ロスアンジェルス ホームステイ1997年(平成9)

 ボクちゃんが高校に入り必修科目の英語と出会ってから事態は急変した。
 アルファベットの読み書きぐらいはできるが、『ジャック・アンド・ベッティ』以来、英文となるとチンプカンプン。
 それまで英語とは無縁の生活をしてきただけに、これは未知の世界だ!
 英語の授業で教科書を開いていれば良いという訳にいかない。
中間、期末テストがあり、ある程度の成績を収めなければならない。
「さぁ、こまった!」
 「そうだ、英語だけの国へ行けば何とかなるだろう」と夏休み、冬休みにホームステイ計画をした。

 先ずは旅行会社のホームステイのパンフレットを見開き、どの国にしようか?
 内容は、料金は、期間はと調べてアメリカに決めた。
 まだ行った事のないアメリカ、ましてや【ロサンゼルス郊外英語研修】を即決。
 
 この【ロサンゼルス郊外英語研修】は学生・社会人と限定されている。
 22日間のコースを申し込む。
 ロサンゼルス郊外・英語研修という見出しに心動かされ期待は高まる。
ホームステイの資料が送られ「英語研修もそうだが、ロサンゼルス郊外というとこが良いな」とボクちゃんは勝手に思いこむ。
 
 出発日、学生・社会人は成田空港へ集合。(み~んな英語が苦手な人なんだ)
 ここで旅行会社からの説明を受け機上の人となる。
 
 ロサンゼルス空港に着き手続きをしている時、ボクちゃんの名前を呼ぶ声が聞こえた。
 「エッだれ?」ロサンゼルスに知り合いは居ないのに。
 手を振って近づいて来た人がいる。
 何とヨーロッパ旅行の時の添乗員Yさんであった。
 Yさんは今回、小・中学生達のホームステイの添乗員として来たと言う。
 偶然ではあるが遠い他国のLAで会うなんて不思議な巡り合わせである。

 さぁ、いよいよLA(ロサンゼルス)だ。
 メンバーは大型バスに乗せられLA郊外へと走る。(期待でソワソワ ドキドキ)
 しかし、しばらくすると山道に入り、峠を越えるとそこは一面の砂漠はではないか。
 「えーっ LAに砂漠が?」とイメージとはほど遠い景色である。
 
 バスが目的地に着き各自がお世話になるホームステイ先からの迎えを待つ。
 皆どんな家に入るのか不安と期待をして、てんでんに迎えの車に乗り込む。
 ところが、ボクちゃんと数名のメンバーの迎えが来ない。
 「どうなってんだ!」と誰かが苛立ちを誰に言うでもなく言った。
 見知らぬ所で待たされる時間は長~く感じる。
 ようやく一台の車が来て「全員乗れ」と言う。

 車はメンバーをそれぞれの家に降し、いよいよボクちゃんの番になった。
 どんな家で、どんなホストファミリーなんだろう。
 ドライバーが「ココダヨ」と家の前で車を止める。
 質素な平屋の家から裸足の一人の老婆が出てきた。
 何やら英語で迎えの言葉を掛けてきた。(ヨーコソと言っているのだろう)
 これからはこの家で全て英語だけの世界で生活しなければならない。
 (大胆で恐れも知らぬ計画をしたもんだと自戒)
 
 JTBが企画したLA郊外英語研修のパンフレットには
 滞在地はLA市内から2~3時間の郊外にある地方都市。
 食事 原則として3食付き
 到着日 ウエルカムパーティー
 月~金の午前 英語研修午前中3時間 
 月~金の午後 滞在地の町、周辺の観光、スポーツ、映画鑑賞、アクティビティー
 一日観光 ディズニーランド、ユニバーサルスタジオ、ビバリーヒルズ、カリフォルニア大学
 土・日 ホストファミリーと一緒に米国生活を楽しむ
 料金 22日間 \474,400

 み~んな英語の苦手な学生、社会人11人の英語研修としては午前中3時間だけの授業というところに魅力がある。
 このスケジュールは午後からの研修の方に趣が於かれているようだ。
 また、一日観光のディズニーランド、ユニバーサルスタジオ、ビバリーヒルズなど盛り込むところが売りのようだ。

 ホームステイに行く直前に書店に出向き『CD付き ホームステイの直前英会話』ナツメ社を手に入れた。
 取り敢えず、「ハウ ドウ ユウ ドウ?」「マイ ネーム イズ ××」
「ハウ ドウ ユウ ドウ?」「アイ アム ××」「ナイス トウ ミート ユウ ミズ ××」「ナイス トウ ミート ユウ トウ」を機内で丸暗記した。
 初めての老婆との挨拶、会話はこれまで。

 と、言うことで一日目が始まった。
 見知らぬ国で見知らぬ人と一つ屋根の下で非日常的な生活をすることとなった。
 このホストファミリーの構成は老婆1、子イヌ1、ネコ1。
 老婆とは言え女、そこへ男一人が住み込んで良いものなのか。
 世間、近所、親戚が騒がないのか。
 
  家の間取りは約8畳のリビング、約8畳のキッチン、老婆の寝室、物置風の六畳のゲストルーム、すべての部屋はドア無しカーテン仕切り。
  クーラー無し。気怠く回る扇風機のみ。
家はプレハブ風、質素、簡素、簡便という作りとなっている。
  家の廻りは少々の立木があり、裏に回ると荒涼とした砂地(砂漠)が広がる。
  砂地にはですね、大きなアリがいて噛みつきます。
  朝になると軒先にブル下げた水差しに小さな姿のハチドリが水飲みに来ます。
  夜ともなれば夜空一面に燦めく星座。

 日が経つにつれ少しずつではあるがホストファミリーとも打ち解け「町へ行くか」と言う。
 家の近所には商店らしきものは何も無い。
 「OK」とだけ返事をする。
 買い物に行くには老婆が車を運転する。
 この車がまことにクラッシックでスピードメーターは動かず、トランクはゴム紐で括ってある代物だ。(車検は無いのか?)
 老婆の脇に坐りチッピリ心配だが、本人はすまし顔で平然と運転している。
 砂漠地帯なので道も少なく建物や障害物も少ないので見通しは良い。

 大きなショッピングセンターに着くと店内は商品が梱包されたまま、うずたかく積まれている。(倉庫のようだ)
客は大きなショッピング・キャリーを押して倉庫の中で物探しをする。
食品売り場では日本のスーパーと同じように、試食のオバサンがいて「コレヲ タベテミロ」と客に勧めている。
老婆はツカツカと進みより両手にその試食を「タベテミロ」とボクちゃんに差し出す。
各コーナーにある試食、試飲はくまなく両手に持ってきて「タベテミロ」とボクちゃんに差し出す。
これで一日の一食分は割愛、節約、省略する魂胆だ。(たくましいー)

アメリカのものは全て大きい。
ポテト・チップの袋詰めも大きい。
コーラーもポリタンクで売られている。
色の濃いジュースもポリタンクで売られている。
それを飲むコップも大きい。
野菜のナス、キュウリも大きい。
ハンバーガーも大きい。とても一つは食べきれない。

ホストファミリーの老婆には娘がいて、時々婿さんと孫を連れて訪ねて来る。
この家族が来るとボクちゃんがショッピングセンターで買って冷蔵庫に入れて置いた牛乳、卵、ヨーグルトなどが少なくなる。(フシギダー)
彼らが食事を作っているところを見たことがない。
その代わりにコーラーとポテト・チップは片時も離さない。
大きなコップに並々とコーラーを入れ、一日にこれを何杯も飲みポテト・チップをポリポリ。
当然、体も大きい。(太りすぎ!)

ある時、ホストファミリーにボクちゃんが「ホンバノ バーベキュー」を食べたいと言った。
「OK」と言い支度に掛かった。庭の片隅に置かれている焼き台で肉を焼き始めた。
期待してテーブルで待っていると炭のようになった肉片が運ばれて「タベロ」と言う。
囓ってみたが「アァ、これはダメだ」と一切れだけで「ノーサンキュー」と言って箸を置いた。
彼らはかなりの量の黒こげになったこの肉を事も無げに食べてしまった。
彼らに味覚、食感、嗅覚があるのだろうか?甚だ疑問である。

日曜日になると近くの教会へ行く。
ここの町(部落)の人達が週に一度集まる場所でもある。
時間になると三々五々と他のホストファミリーも来る。
教会の長椅子にそれぞれが座り、黒人牧師が出てくると聖歌が流れる。
それが厳かな聖歌では無く、ビートの効いたリズムの聖歌でボクちゃんはたじろぐ。
しばらくすると会場に帽子が回され寄付を仰ぐ。

この宗教団体はボランティアとして週に一度、焚きだし(雑炊風、ジュース)を持って公園にいるホームレスに食事を提供する。
このホームステイ・システムはどうもこの宗教団体が受入団体となって、ここの町(部落)の生活を支えているようだ。(ウムウム そのような雰囲気がする)

即ち、ホームステイの受入団体は旅行代理店を通して、この町の家々に学生・社会人を分散して泊まらせ、その費用を生活に充てるというのだろう。
それだけにスケジュールの中にある一日観光ディズニーランド、ユニバーサルスタジオ、ビバリーヒルズ観光等がこの企画の目玉なのだ。

 英語研修にしては授業時間が短く、三食付きは疎か、ホストファミリーの手作り料理は一度も食べる事は無かった。(グヤシー)
 それでも何とか無事に22日間の外国生活を過ごすことができ、LA郊外英語研修は終えた。(アァ LAはしんどかった 想像していたよりも格差社会である)


 2回目 オーストラリア・シドニー ホームステイ1997年(平成9)
前回のLA郊外英語研修にも懲りず二回目のオーストラリア・シドニー ホームステイ1997年(平成9)を決行した。

 今度は高校の冬休みを利用して個人的な英語研修ナシ15日間のホームステイだ。
 日本の冬はオーストラリア・シドニーでは夏である。
 団体では無く一人でオーストラリア・シドニーまで行って、ホームステイをする根拠、魂胆、無謀は前回と同じボクちゃんのポリシーである。(優柔不断)

 以上が今回のホームステイ15日間の日程表である。
 今度ばかりは出発から帰国まで完全な一人旅である。
 サァどんなホームステイになることか?

 シドニーへ
 飛行機の座席は大体が窓側3人席で中央5人席になっている。
 ただし、現在は全席禁煙になったが、当時、後部座席は喫煙席があり2人席になっている。
 ボクちゃんは搭乗前のカウンターでこの後部座席の窓側をお願いした。
 もちろんタバコも吸うが2人席でないと両側に外国人客に挟まれたら長時間生きた心地がしないから。
 少しずつ飛行機に乗る要領を覚えてくる。
 この日のJL771は空席があり離陸すると直ぐにボクちゃんは中央席に行き5人掛けの席で横になる。
 これこそ機内泊で体力温存する。(グット・アイデア)

 機内で入国カードが配られオーストラリアは食べ物の持ち込みは厳しいと言う。
しかし、乾麺のソーメンなら大丈夫と思い「ヌードル」と正直に申告した。
 到着時間通りにシドニー・キングスフォード・スミス国際空港に着陸する。
 入国手続きが済み、スーツケースが出てきてロビーへ行こうと思ったら係官に呼び止められ別室へ連れていかれ「ケースを開けろ」と言う。
 「何で?」と思いケースを開けると「ヌードル ヌードル」と係官が言う。
 乾麺なので折れないように着替えの間に挟んであるソーメンを出す、と係官はこれが「ヌードルか」と怪訝な顔をして手に取った。
 英語で「〇×△∞......?」と質問するので「ジス イズ ボイル ボイル」と手振りして納得して貰う。

 遅れること30分、ロビーには出迎えのホストファミリーがボクちゃんの名札を持って待っていてくれた。
 ホストファミリーとは事前にお互いの身元を紹介してあるので旦那がビルで奥さんがウィニィであると直ぐにわかった。
 二人は高齢だが元気で空港まで出迎えてくれた。
 二人に会った瞬間にこれは前回のLAのホームステイとは全然違うなという雰囲気だった。

 家は閑静な町にあり部屋も綺麗に整理されている。
 ここで多いに助かったのは奥さんのウィニィは少しだけ日本語が理解できるということだ。但し本当に僅かな日本語だけど。
 
 先ずはお世話になるので浅草で買ってきた手ぬぐい、のれん、置物をプレゼントする。
 すると、奥さんのウィニィから家の鍵と小型ケースが渡され中に小銭と住所、電話番号が入っていた。
留守にした時、迷子になった時にこれを使えと言うことらしい。
 (行き届いた心遣いにサンキュウ サンキュウ)

 初めは家から駅までのバスの乗り方、電車の乗り方、切符の買い方を一緒になって案内してくれる。(本当に親切だ)
 
 旦那のビルは朝鮮戦争の時に広島・呉と九州・佐世保に来たと言う。
 温厚で温和しい人柄でいつもニコニコとしている。
 週に一度は退役軍人のクラブがあり、そこで食事をする事になっていた。
 クラブには飲食はもちろんのこと、ゲーム機があり、ビリヤード、ボーリング・ゲームもあり生バンドでダンスもできるクラブである。
 ビルは友達に日本人のボクちゃんを一人一人に紹介してくれる。
 奥さんのウィニィはここではスロットルゲームに夢中になり帰りまでやり続ける。
 クラブでの食事はファミリー・レストラン風で食券を買いオーダーすると出来上がりはマイクで呼び出され取りに行くというシステムである。
 肉料理では鶏肉モモのステーキが柔らかく味もあっさりとして口に合う。
また、付け合わせのジャガイモがやけに美味しい。
この料理にはビールが合う。ビールも旨い。
 こうして一週間は過ぎて行く。

 普段の日はバス、電車の乗り方を覚えたのでシドニーの町へ行き一人観光をする。
 電車で30分乗ると町の中心サーキュラー・キー駅に着く。
 サーキュラー・キーは絵はがきにもあるシドニー・オペラ・ハウスのある有名な港町である。
 もちろん「ブルーガイド・ワールド オーストラリア」を片手に地図を頼りに歩いてみる。
 地図を広げて目的地を探しているとボランティアなのか、すかさず近寄り「どこを探しているのか」声を掛けてくる。
初めは少し警戒をしたが観光客にはとても親切に教えてくれるので安心できる。
「旅は情け、人は心」である。

 町の観光インフォーメーションには日本語のガイド冊子がありとても役立つ。
 シドニーの見所はたくさんあるが、海に面しているタロンガ動物園がある。
 ボクちゃんは動物園が大好きだ。
タロンガ動物園はサーキュラー・キーから船で行く。
船で行くというのがいい。約10分だ。
動物園の料金受付のオバサンがいきなり「ウェア ユー フロム?」と実践英語で迫ってきた。「......フロム?」一瞬戸惑い「ジャパン」と応えた。「オー」と指を指す。
その指先を見ると日本語の動物園のガイド・ブックが置いてあるではないか。
(あのオバサン親切だ)

この動物園はかなり広い。
入り口から緩やかな勾配が続き、緑が豊富で所々から海が見える。(ロケーション抜群)
動物園は大人でも充分楽しめる。
いつも寝そべって動かないワニ、日陰の下で寝ているライオン、水の中で動かないカバ、働き者のリス、時々物を投げるゴリラ、鼻使いの達者なゾウ、勢力争いの激しいサル、気取りやのクジャクなどと、どの動物を見ていてもそれぞれに個性があって飽きない。
時間によってアトラクションがありアザラシのショーが人気であった。
イケメンのオニイサンの指示で英語が理解できるアザラシ君はボクちゃんよりも賢い。

 シドニーの町にも「チャイナ・タウン」があり中国料理店が軒を並べている。
 一軒の中国料理店に入ってみる。
 店内は広く多くの客で賑わっていた。
 案内されるままにテーブルに付き廻りの様子を伺う。
 蒸籠や料理を積み上げたワゴンを押して店内を回っているニィアン(中国語=娘)がそこかしこにいる。
 機内サービスの大型判である。
 取り敢えずどんなものがあるのか呼び止め、コレトコレと指さし何品かテーブルに置いてもらう。
 知っている中国料理シュウマイ、春巻き、小籠包、蒸し餃子とテーブルに並べてはみたが一人ではこんなには食べきれず、残りを持って帰りたかった。残念!
(中国料理はグループで食べるのが良い)

シドニーの町はさほど大きくないので循環バスのチケットを買えば何処でも乗り降り自由で観光スポットを廻ることが出来る。
「差し当たっての用事は無い」ので先ずは一周してコースを確認してみる。
 シドニーでの一日の過ごし方は地図を片手にこのバスに乗り、気の向くままに町を見物して歩く。

 日本と反対
 さて、気候は日本とは反対で12月は夏である。
 夏のクリスマスはどこか違和感がある。
 ただ、日本とは違い余り湿度がないのでサッラとした暑さで過ごしやすい。
 日本と反対と言えば世界地図もオーストラリア大陸が上に描かれて日本列島が下に描かれている。(奇妙、珍妙だ)


 5W1H
 ホストファミリーのビル、ウィニィ夫妻との会話だが食事のときに話しかけられる。
 当然ではあるが食卓にある見慣れない物を指さし「What?」とだけ言って尋ねる。
 大概の質問はWhat, When, Who, Where, Why, How、5W1Hを用いれば大体は通じるようだ。(と思う...?)
 相手方もボクちゃんに判って貰おうと簡単明瞭に話すのでこれが良い。
 
民間外交
 ホストファミリーの朝は起きてから食事前に彼らの庭を掃除する。
 もちろん部屋の掃除もする。(自分ちでは余りやらないのに)
 これがとても喜ばれる。
 
 ある時は日本文化を知って貰おうと習字を書いて見て貰う。
障子紙と墨汁を持参したので丁度季節は暮れだ。
『謹賀新年』『明けましておめでとうございます』を書き玄関に貼ると夫婦は大喜び。
(ちょっとした民間外交)

 また、料理では空港でトラブルとなったソーメンを茹でてスパゲッティ風に炒めたり、揚げ物では特に天ぷらが喜ばれた。
 スキヤキは牛肉が安いのでたくさんの肉を入れて多いに満足して貰う。
寿司は今ではグローバル、インターナショナルの食べ物だけに握るというところに関心がありこれも喜ばれた。

数年前にビルは他界した (残念!) が今でも奥さんのウィニィから毎年クリスマス・カードを頂く。(義理堅い)


ニュージーランド語学ホームステイ2006年(平成18)
 前回のオーストラリア・シドニー・ホームステイを体験、経験をした事で再びニュージーランド語学ホームステイ2006年(平成18)を決行する。
 今回のNZ(ニュージーランド)のホームステイは少しばかり本格的?にEnglishを現地の学校に入り学ぶ事にした?
 
 その理由は大学に入り必修科目で英語をクリアしなければ卒業できない。
 ならば一番、本格的にNZの語学学校に入り英語浸けになれば何とかなるだろう、と甘い、愚直、安直な発想から思い立った。

 このニュージーランド語学ホームステイへ行く前に高田馬場にある「ISS国際交流センター」へ通い一ヶ月英語の個人レッスンを受け万全を期す。(あまり効果ナシ)
 「ISS国際交流センター」の斡旋で学校はNZ・クライストチャーチにある「EXCEL ENGLISH COLLEGE」に決まった。
 また、ホームステイ先はクライストチャーチのトム&マーガレットの家と決まった。

 この海外研修は少しばかり長期で60日間である。
 でも、今回のボクちゃんは少しばかりどころか真剣なのである。
(高田馬場でオバチャンの先生に英会話の予習レッスンまで受ける)

 初日からアクシデント
いよいよ出発の日となり搭乗終了。
 飛行機は離陸滑走路へと動きだしエンジン音が高まる。
 だが、「アレレ」エンジン音が低くなり、なぜか機は引き返すではないか。
 この件に関しての機内放送もない。
 自分も乗客も「何で?」と不安になる。
 窓から外を覗くと「ゲッ!」数台の消防車、救急車が待機しているではないか。
 これは一大事!
防護服を着た消防士が走り出し翼に向けて泡状の消化液を浴びせる。
今だにこの件に関して機内放送が無い。
 すると窓から見ると燃料が滝のように流れ落ちているのが判った。
 では、別の便に乗り換えるのかと機内放送を待つ。
 しかし、機体整備員が翼の上になり下になりとして修理を始めた。
 2時間も掛かって修理終了する。
 その間、「修理が済み次第に離陸します」ときたもんだ。
「オイオイ 違うだろう」
 結局、離陸時間が遅れたためNZへの直行はできず、マレーシア・クアラルンプールへ行くことになった。

 クアラルンプールへ着いたのが深夜である。
 ここに航空会社が宿泊施設を手配してあるので泊まるようにと指示された。
 しかしである、深夜の空港では宿泊施設の場所を聞く人も余りいない。
 仕方が無く空港内を日本人スチュワーデスが居ないか血眼になり探し、ようやく泊まる場所が判った。(モォー 初日からヘトヘト)

 このホテルの部屋の壁にはヤモリがへばり付いていて「ギョ」としたが、疲れているので直ぐに寝込んでしまった。
 翌日は午後の便なので折角知らない国に来たのだからと昼過ぎまで町の散策を楽しんだ。

 入学式
 アクシデントで一日遅れのNZ・クライストチャーチに着き先生の出迎えを受ける。
 直ぐにホームステイ先のトム&マーガレットの家へ行き「ヨロシク」と挨拶をした後、
学校の入学式へと連れて行かれる。
 学校はNZの南島最大都市クライストチャーチの中心にあり、教室に案内され先生から生徒達に紹介された。
「エー あのオジンが」と生徒達は怪訝な顔つきで迎えてくれた。

翌日からはバスに乗り学校へ初登校する。
初日の緊張はハンパではない。
校内にはクラス分けがあり初級、中級、上級に分かれ、もちろんボクちゃんは初級クラスだ。
クラスには韓国、台湾、サウジアラビア、日本とアジアの生徒がいて国際色豊かなクラスである。(み~んな英語を習いに来ているだ)
校内では英語以外の会話は御法度で先生に見つかると罰金というルールがある。
(厳しー)
8時から授業が始まり、10時にティータイムがあり12時で午前の授業を終了。
ボクちゃんは午後の授業がある事を知らず、12時になると帰ってしまった。
先生が心配してホームステイ先へ連絡したが、ボクちゃんは町を見物しては夕方に家に帰っていた。
先生も諦めて授業料の半分を返してくれた。(良心的だ)

NZ南島観光
毎日を学校と家だけの往復だけではつまらないので学校の連休を利用してバス旅行にも出掛けた。
NZ南島には見所がたくさんあり観光案内所で資料を見てコースを決める。
ある時、観光バスに乗り出掛けたのだが、ガイドは全て英語なので途中での休憩時間を聞き間違えないように、と緊張して聞き入っていた。
その時、車内のどこからともなく日本語の会話が聞こえるではないかる
「もしかして?」と次の休憩場所でその人(若いご夫婦)に近づき、「旅の恥は掻き捨て」とばかりに若い旦那に「実は英語がわからないので......よろしく」と言うと、快く承知してくれた。
このご夫婦はオーストラリアに勤務していて近々タイへ転勤となるのでNZ観光に来たと言う。
最後に名刺を頂き今でもEメールで連絡をしている。
「旅は道連れ、世は情け」である。

再会
また、旅先で不思議な事が起きた。
あるところで観光ヘリコプターに乗りたくて観光案内所で説明を受けたが理解出来ない。そこへ通り掛かりの若い日本女性達に声を掛け、ここの説明を通訳して貰った。
この若い日本女性達のお陰で無事にヘリに乗ることができたのである。

その旅行から帰りしばらくしてクライストチャーチの町を歩いていると、
その時の一人の女性と偶然にも会った。
お礼を言って「何処にいるの?」と尋ねた。
な、なんとボクちゃんがステイしている家の直ぐ近くであることが判った。
この話はこの後まだ続く。

 トムとマーガレット夫妻
 ホストファミリーのトムとマーガレット夫妻はとても明るい性格で、旦那のトムは大男でお酒が大好き、夫人のマーガレットはゴルフ好きで週一ゴルフをしている。
 (この国の社会福祉制度が良いのか老夫婦は悠々自適)
 トムは夕食の時には必ずビールを勧めてくる。(自分が飲みたいのに...強い)
 でも、トムはとても心優しい人柄で毎朝ベット・ルームのマーガレットへコーヒーを持って行ってあげる。
洗濯までする。隣の家の壊れた塀まで修理してあげる。

ゴルフ好きのマーガレットは週一ゴルフを楽しんで、時にはボクちゃんを誘う。
 クライストチャーチにはゴルフ場、ラグビー・グランド、公園がたくさんある。
 ゴルフ場は家から歩いて5分の所にあり料金も1ランド\1,000でできる超安価。

 ある時、マーガレットとボクちゃん、近所の友達Y女史と一緒にプレーをした時、
ボクちゃんがマーガレットに「今晩の食事はボクちゃんが作るから、彼女も一緒にどう?」と招待した。

 ここから前述の話と繋がる。
 夕食には天ぷら、寿司、すき焼きを用意してY女史を待つ。
 マーガレットの話ではY女史もホームステイをしていて、いま学生がいるので一緒に来ると言う。
 Y女史とその学生が来た。
「アレ!あなたは?あのときの?」とお互いの顔を見て、何という巡り合わせ、偶然、奇遇であろうか。彼女と自然にハグをしてしまった。
 そうです、遠い旅行先で通訳して貰いしばらくしてからクライストチャーチ市内で会ったあのA女性です。
 事情を知らない両ホストファミリーはこの場面には目をシロクロ(アオシロ)して「ショウナン Why?Why?」と盛り上がり、A女性も学校は違うがY女史の家でステイをしている学生だという事がこの時に判った。
 A女性と三度目の巡り合わせで、この夜のパーティは多いに盛り上がり、次回はY女史の家でパーティをすることになった。(縁は異なもの味なもの そのままの出来事)
 
 卒業式
 さて、学校の話に戻す。
 ボクちゃんはここに入学してから一度も進級しない。(自慢にならない)
 先生に「ショナン」と呼ばれ「ハイ」と返事をしてしまいボクちゃんのレベルに併せ「スキナタベモノハ?」とか「イマ ナンジ?」とか極々単純な英語で質問してくる。
 同じに入学したクラスメートは次々に進級していく。
 テキストの宿題は毎日あり英語の作文も書かなくてはならない。
 その為にボクちゃんはノートパソコンを持って行ったのである。
パソコンの英和翻訳機能を駆使して宿題の作文は何とかクリアした。
(これではゼーンゼン進歩しない)
 そんな中、ヤスコという優しい女性学生がいて彼女が授業、アクティビティーと何かと世話をしてくれた。(捨てる神があれば拾う神あり ヤスコは女神だぁ)

 それでもボクちゃんは欠席もせずに無事卒業を迎えることができた。
 卒業式には卒業証書の他に特別賞まで授与して皆から羨ましがられた。
(有終の美てこのこと?)
 先生から最後に挨拶をと言われ
 『Hello Everybody, I am afraid I must be leaving now.
Thank you for a wonderful time. I enjoyed myself very much.
It is the last one word of me. "Young man, be ambitious!"』
 と言う訳のわからない英語のスピーチをして卒業式は終わった。

 ファームステイ(農業体験)
 学校の卒業後、帰国に二週間ばかりあるので「そうだ!カウボーイになろう」ととんでもない事を思いつき、すぐにファームステイへと飛び込んだ。
 人よりもヒツジの数が多い国NZだ。
 馬に乗りカウボーイ・牧童になってヒツジの群を追っかけ回す。
(いいなーこの発想)

 心弾ませ一軒の農家に入った。
 まず、カウボーイ・牧童はどんな仕事をするのか主人に尋ねると「ンダ デギドウダ」と東北訛り?で応える。
 牧場の朝は早い。朝露が朝日に輝いている。
 主人がトラックを持ってきて「ココサノンレ」と荷台を指さす。
 アレ、馬に乗るではないのか、と荷台にしがみつく。
 牧場の朝風は冷たい。
 飼料小屋に行き米俵ほどある餌を荷台一杯に積む。
 
 広大な牧場はいくつかに仕切られて約1000匹以上のヒツジと数頭のウシが放牧されている。
 車の音を聞きどこからともなくヒツジが集まって来る。
 そのヒツジたちに車をユックリと走らせながら荷台に載ったボクちゃんが餌撒きをする。
 ヒツジは列を作って車の後を追いかけて来る。 
(まるで、成田山の節分豆まきのようだぁ)

 ちょうどこの季節、ヒツジの毛刈り(wool)のシーズンでもある。
 このヒツジたちを集めるのにトラックの荷台にボクちゃんとイヌと一緒に乗せられヒツジを集める作業に掛かる。
 主人がイヌに「アッヂノグル゛―ブオ コッチァアヅメロ」と訛り英語で命令すると賢いイヌはキチン、キチンとヒツジ達を集めて走る。(実に従順、素直、正直である)
 ボクちゃんは何もしないでただ呆然とイヌの作業を見ているだけ。(情けなー)
 
 牧場の片隅にはヒツジの毛刈り(wool)小屋があり。
集められたヒツジは柵で仕切られ順番を待つ。
熟練した三人の毛刈り職人によって綺麗にスッポンポンの丸裸にされてしまう。(寒そう)
 その手際の良さは実に鮮やかである。

 「ヒツジは群れをなす」と言うが、まったくその通りで群れで行動する。
 放牧場にはヒツジ小屋がないので夏でも夜の寒い時には所々に木の切り株を燃して、暖を取らせてやる。
 パチパチと炎がはぜる廻りに集まり互いに身を寄り添って寝る。

 短期間の農場(畜産)体験であったが動物の管理は毎日手を抜くことが出来ない。
 一見、放牧でのんびりしているようだが特に家畜の病気にはとても神経を使う。
ある時、こんなことがあった。
朝の餌撒きをしている時、一匹のヒツジが牧場の隅に倒れていた。
 主人が作業小屋に入り砥石とナイフを取り出しナイフを研ぎ始めた。
 ナイフが研ぎ終わるとボクちゃんにトラックの荷台に乗れと指示され、倒れているヒツジの所へ車を走らす。
 遠くに見える、倒れているヒツジの頭には一羽のワシが翼を広げさかんにヒツジをついばんでいるではないか。 
 車が近づくとワシは飛び立ち、ヒツジの目がえぐられている。
 主人は慌てず騒がずナイフを手にしてヒツジの首を折り喉にとどめを刺す。
何という残酷な光景だ!(その時は思った)
 このヒツジを荷台に載せるので後ろ足を持てと言う。
 ヒツジはまだ暖かい。
 牧場の片隅にある大きな穴へとこれを運ぶ。
残酷ではあるが生き物と共生する事はこうした厳しさもあるが、これが最善の方法である、とこの時に教えられた。
 
 60日間のNZクライストチャーチの語学研修はアッと云う間に時間が過ぎてしまった。
 それだけ毎日が充実した日々であった、ということになるのであろう。
この後、二人の孫を連れて再びNZへ行く事となる。


ニュージーランド旅行Ⅱ2006年(平成18)
孫達とNZへ
 NZで語学ホームステイ2006年(平成18)したのが大変印象深く、是非とも孫(小3・6年)を連れて行きたいと思い二人のパスポートを取りNZへ行って来た。
 実はボクちゃんには5人の孫(外3、内2人男子ばっか)がおり強靱な大砲を搭載した連合艦隊を所有している。
 その内の小型巡洋艦二艇を引き連れ友好国へ出港した。

 NZの語学学校、ホームステイとはEメール交換をしていたので事前に報告をしておいた。特に女神学生ヤスコとは頻繁に連絡をしていたので、来訪を心待ちしていることが電文で伝えられた。

 機内で
 さて、二人の孫は飛行機に乗るのも初めてで、うれしさと期待とで見送りの両親に挨拶もそこそこに搭乗する事となった。
 今回は自分の事だけではなく孫の分まで面倒見無ければならない。(自分の頭のハエも追えないのに)
 果たして母艦(母親)から離れて10日間の航海が大丈夫なのか心配であった。

 二人の孫は搭乗するやいなや座席にセットされているモニターテレビの操作に取り掛かり早速ゲームを始めた。 初めて飛行機に乗る彼らはやることが早い。
 ボクちゃんなんか操作の仕方が判らず、これらのものには決して触れず今まで来た。
 このことで彼らとの脳ミソの回路が違うことが判った。(モー マッタク)
 
 彼らは飛行機に対する興味、関心、恐怖心はまったく無いようでゲームに夢中だ。
 機内食も早々に済ますと直ぐにゲームに取り掛かる。
 それでもしばらくすると疲れたのか下の孫は座席の下で寝込んでしまった。

 二度目の食事が運ばれて来る。
 ワゴンを押して来たスチュワーデスが一人少ない席を見て怪訝な顔で「ツー?」と聞く。
 ボクちゃんは床を指さし「ココ」と言ったらスチュワーデスは笑って食事を置いて行った。
 
  クライストチャーチ空港に無事に着き、今回はボクちゃんが彼らの添乗員代わりだ。
 その前に何故ボクちゃんが彼らをクライストチャーチへ連れて行ったかと言うと、大様らかな国民性と自然が豊かにところを見せたかったからである。
また、もう一つは通学、通勤バスの乗り降りの際に学生達は必ずドライバーに挨拶をするので、この光景を孫達に見せたかったことです。
以前の日本だったら当たり前の挨拶が今日では見られない。
ここNZでは当然の如く行われている。孫達に参考になるではとバスに乗せました。
(老婆心ながら)

クライストチャーチへ着くと以前通っていた学校「EXCEL ENGLISH COLLEGE」を訪ねてみた。
授業は始まっていたがボクちゃんを見たフロントのF嬢はびっくり。
F嬢は直ぐに当時の担任であった先生に報告に行き教室に招かれた。
授業中ではあったがT先生は生徒達を前に我々を紹介して、孫二人に「What is your name?」と英語で問われ何も教えもしない孫達は「My name ・・・」と応えるではないか。(こんなのアリ!?)
先生も喜んでくれたがそれ以上にボクちゃんの方が舞い上がってしまった。

その夜は近くのホテルに泊まることになり、孫達も疲れて直ぐに寝るのかと思いしや、初めてのベッドに喜び飛び跳ねる始末だ。
風呂も大きく浴槽に泡を立てて大はしゃぎ。(自分ちではできないから)
すると、電話が鳴り受話器を取ると女神ヤスコからではないか。
「これからそっちへ行くから」と言う。
ヤスコは一年間クライストチャーチにいるので町の事には明るい。
しばらくするとヤスコと数人の友達が来て、この夜は遅くまで歓談をした。
翌日からはクライストチャーチの市内を観光した後、以前行って素晴らしいかった南島の観光地を回り、まだ行ったことのない北島を廻って帰ってきた。
帰国後、孫達にNZをどんな思いで行ってきたのか感想文を書かせたのです。
が食いしん坊の祖父のDNAなのか「あそこのビフテキが旨かったとかソフト・クリームが美味しかった」とか食べ物が主な感想文で甚だ嘆かわしい内容であった。

 しかし、孫達は旅行中の自分の身の回りの事をまとめたのだから、この間だけでも自立したのではないだろうか。(「ジィちゃん忘れ物無い?」などと注意を促されたりして)

 中国旅行
 こうした旅の前後に各地、各国へと行ってははいるが、中国へは七回に渡って旅をしました。

 初めての中国旅行は例のパック・ツアーでオジサン、オバサングループに混じり北京・西安・上海だと記憶をしています。
 実はこの中国旅行には少々事情があったのです。
大学に入り英語は必修科目ですが選択外国語として「中国語」を選択してしまったのです。
漢字だから直ぐに判るだろうと簡単に判断して選択したのですが、これが大きな間違いで
あった。
 まず、発声・発音(四声)が複雑で生やさしいものではない、漢字も簡体字(略字)もあり、この選択には大変滅入り苦労しました。
ならば中国へ行って体験すれば判るだろう、とまたもや安易、安直、性急な思いで出掛ける事となったのです。
 それともう一つは万里の長城は本当に万里続いているのだろうか、それを見てみたいという単純な発想からです。
(万里の長城は白髪一千丈、眉間一尺如しだ)

 最初の頃の中国旅行は「ニィーハァオ、シィエシィエ」くらいの挨拶言葉を覚えて観光地巡りをしました。
 当時の中国は経済発展途上で著しく町に活気が満ち溢れていました。
しかし、各観光地には観光客に物売りや物乞いが群がり、おちおちと見学ができない状態で煩わしささえ感じました。
 だが、こうした混沌、猥雑さが中国のエネルギーとなっているのは間違いない。

 国土の広い中国は一度や二度の旅行では判るはずはない。(都内だって判らないのに)
でも肌の色、髪の毛の色が同じなので親近感はある。
あと文字の共通しているところがあるのでもっと良い。(発音、発声は違うけど)

 近くて遠い国だった中国だが、今では上海まで約3時間で行ける。
 当時の中国では勤め人は全て公務員であったが、いきなりの開放政策でいきなり会社員になったしまった。
 さぁ困った。会社員になって「ドウスレバイイノ?」「ワカンナイー」と対処の仕方が判らない。
 その例が商店へ買い物に行った時の店員の対応では笑顔ナシ、愛想ナシ、釣り銭はナゲルという役所根性丸出しであった。
「あんなに綺麗な顔をしているのにシィエシィエも無く もーまったく!」と何度思ったことか。
 それも歳月流るる如しで、今では商魂たくましくGNPを大きく伸ばしている。
これはG我慢、N忍耐、Pポリシー(政策)を地道に施策してきた結果が出てきているのであろう。(ボクちゃんには難しいことはわかんないけど)
 さぁ、この先を急がないと!

 ボクちゃんがM大に在学中、H大の東洋史学から中国の古跡、史跡を調査に行くのでと一緒に行かないかと誘いを受けそれに便乗して何度か行くことにした。
 M大に在学中は旅に明け暮れていたので直ぐにOKした。
 ただ、H大の調査という目的がチョット引っかかったが腰巾着となって同行したのである。
 それは北京から始まり万里の長城に沿って敦煌までを何度かに分けて調査をするという。
 ボクちゃんはあくまで腰巾着なので十数名の研究生に混じり、現地の発掘現場へ行ったり、古跡古城へと付いて行き教授の説明を聞くだけの日々であった。

 万里の長城は所々の地域で崩落して朽ちている所もかなりある。
また、都市部から少し離れると今だに道路は無舗装で天気の良い日は土煙でモーモー、雨の日はグチャグチャのぬかるみが何処までも続く。(♪悪路は続くよ~どこ~までも)
 しかし、遺跡、古跡古城の調査地は開発された所では行われる事は希で、ほとんどの場所は辺境な場所にあり、その場所に行き着くまでは難行苦行である。

 探検家
 ある時、遺跡調査へ向いこれ以上は車が入れない場所まで行った時の事。
 教授の説明では「ここの城はB.C:1,400頃のものだ」と言う。
はるか向こうに朽ちた土作りの古城は見えている。
そこで、ここから遺跡まで歩かなければならない。
何となく、どことなく未知の世界への探検家の気分になる。
あそこには金銀財宝が宝箱に溢れている絵を想像してしまう。
周囲360゜は見渡す限りの荒涼とした景色である。

俄探検家になったボクちゃんは前のめりになって金銀財宝が宝箱を求めて奥地へ奥地へと突き進む。
こんな辺境の地に誰かがいるのだろうかホコリまみれの綿畑がある。そこを無断で横断する。
ホコリまみれになり歩くこと二時間ようやく土塁を張り巡ぐされた古城に着いた。

かなり広い城跡は無機質な日干し煉瓦を積み上げた土塁で囲まれ、中庭は空虚の瓦礫がちりばっているだけではないか。
 俄探検家の落胆の色は隠せない。
 しかしである、教授が「ここにはこの時代の焼き物や鉄器の欠片がある」と言うではないか。
 俄探検家は再び目の色が変わった。
 ボクちゃんはこれまでの探検家から一変して今度はゴミ拾い(廃品回収)となった。
 棒を片手に瓦礫をかき分け、かき分け焼き物の欠片、鉄器の収集を血眼になりゴミ拾いに集中。
 この欠片を拾い集めては教授に見て貰うと「確かに周洛陽のB.C:1,400のものである」とお墨付きを貰い、一躍喜び再び探検家に戻った。
 欠片とは言え「周洛陽のB.C:1,400」のものであり財宝には間違いない!宝物である。

 しかし、こうした史跡、古城はとうの昔に盗賊達に盗掘せれていて目星ものはほとんど運びだされている。
 それでもこの時ばかりは探検家になった気分は充分味わった。

 こんな辺境の地には食べ物屋など有るはずも無い、が遺跡から戻って来ると車の横に荷車を止めているオジサンがいるではないか。
 荷台にはウリが積まれている。
 ウリを一つ分けて貰い炎天下の下でこれを頬張ると、何とも言えない甘さといっぱいの果汁で、この上ないご馳走であった。
 これが「ハミウリ」であると初めて知った。
 でも、あのオジサン何処から来たのだろう?

旅というものは前述したように定義として「差し当たっての用事は無いが、判で押したような毎日の生活の枠からある期間離れて、ほかの土地で非日常的な送り迎えること」とあるように国内、国外へ旅をすることはマンネリ化した日常生活から離れ、珍しい食べ物に巡り会ったり、知らぬ人との出会いであったり、素晴らしい景色であったりと新鮮な刺激を覚え、興奮したり、恍惚感さえ感じる。(ボクちゃん、万年恍惚のひとだが)

閑話
ボクちゃんは生来の性格で物見見たさと好奇心から今までいろいろな国や場所に出掛けていた。
しかし、一休さんの「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」ではないが寄る年波で最近はもっぱら半農半漁をライフスタイルに取り入れ、身近な日本の四季を楽しんでいます。
自分で作った野菜、自分で釣り上げた魚。
これは格別に美味しい。
高級レストラン、料亭よりも全ての料理素材は星五つ。
これこそが最高の贅沢である。

確かに自然を相手の農・漁の作業は厳しい暑い季節、寒い季節があるが、その代わりに素晴らしい宝石(野菜・魚)を掘り起こせた時の喜びは格別です。(大富豪になった!)
 これからもますます食漁りに専念没頭して大富豪財団を設立し、食卓を賑やかにする事を誓います。

 ボクちゃんのこれからの旅は、これからの「人生の旅」である。
「差し当たっての用事は無いが、判で押したような毎日の生活の枠から離れて、非日常的な送り迎えること」をモットーに、どんな旅になるのか期待と楽しみで胸(腹)をふくらましているこんにちです。


イギリス・フランス・イタリア・スイスツアー1996年(平成8)
シンガーポール・タイ・香港1996年(平成8)
スペイン・ポルトガルツァー1997年(平成9)
アメリカ・ロスアンジェルス ホームステイ1997年(平成9)
オーストラリア・シドニー ホームステイ1997年(平成9)
カナダ横断ツアー1998(平成10)
ハワイ旅行1999(平成11)
トルコツアー1999(平成11)
沖縄旅行2001(平成13)
長崎島原普賢岳2002(平成14)
中国旅行Ⅰ2002(平成14)
中国旅行Ⅱ2002(平成14)
中国旅行Ⅲ2004(平成16)
オーストラリア旅行2004年(平成16)
バングラデシュ2004年(平成16)
中国旅行Ⅳ2004(平成16)
中国旅行Ⅴ2004(平成16)
中国旅行Ⅵ2005(平成17)
中国旅行Ⅶ2005(平成17)
京都旅行2005(平成17)
ニュージーランド旅行Ⅰ語学ホームステイ2006年(平成18)
ニュージーランド旅行Ⅱ2006年(平成18)
秋田・仙台旅行2007年(平成19)
伊豆松崎温泉2007年(平成19)
神津島旅行2007年(平成19)

このアーカイブについて

このページには、2009年4月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2008年12月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。